「ランチなう」の真意
mixiは足跡機能や最終ログイン時間がばれることから、廃れ、敬遠されてきた。
しかし、LINEもTwitterもFacebookも廃れてはいないが、同じような道をたどり始めている。
「既読になっているのに」
「ツイートしている暇あるなら返信しろコノヤロー」
・いくつかのSNSをチェックすれば相手が本当に忙しいのか、ただリプライを怠っているのかがすぐに分かる。
・さらに直接会ったときと、Twitter上とFacebook上の性格、人格は統一されていないといけない。
このようにSNSには2点の問題がある。
即返信という暗黙の了解と
ネットとリアルでの人格統一である。
既読とばれてしまうことによる返信への強迫感は、推敲の時間を奪い、また短時間のうちにネットとリアルでの人格がぶれてないかのチェックまでしなくてはいけない。
(あえてリアルな私とは違う鬱ツイートをする場合もあるがここでは省略する)
このようなリスクを冒しながらもなお、SNS上には「でフォト」で溢れている。
勝手に命名した「でフォト」とはSNSにアップされる、自己満足、逸脱自慢の写真で、それを見た人が「で?結局何がいいたいの?」とつい思ってしまうような写真のことである。
自分の昼ご飯の写真を挙げて
「ランチなう」
という投稿などがその例である。
そこでまず一つ目の問い「でフォトに対し、プラトンのイデア論とそれを下敷きとした図像学は成立しうるか、否か」について考えたいと思う。
プラトンのイデア論と図像学を簡単に整理すると、イデアとは完全、完璧な理想的な世界で、人間の世界にはそれに近づこうとしても、それに値するようなものはない。
イデアの世界と人間の世界には超えられない壁があるというのが、イデア論である。
もちろん神もイデアの領域の中にいる。
しかし宗教画を書く中で神を描くことが多かった時代では、イデアの中にいて、
その実像を追い求めてもたどり着けないことに対する妥協点として図像学が発展した。
また複雑な体系にある図像学を読み解けることが知性のアピールにもつながったのだ。
次に問いについても整理したいと思う。
SNS上の「でフォト」はイデア論と図像学に当てはまるのかは、
つまり、でフォトには「でフォトのイデア」が想定されているのか、
また図像学のようなコードがあるのか、
という2点の問いと言い換えられる。
まず、でフォトにはイデアが想定されているのか、は否と考える。
なぜなら、でフォトは自己満足を第一の目的としているため、美や真実の追求は二の次になっているからだ。
次にでフォトには図像学のようなコードが存在するかどうか、は存在すると考える。
しかし上述のような宗教絵画における図像学とは違い、送り手はコードにそって撮影、投稿するが、受け手はコードを読み取ることは少なく、興味関心を抱いていない。
受け手が「で、結局何がいいたいの?」と反応に困ったり、興味を持たないSNS上の写真を「でフォト」と定義したことからも、従来の図像学と違い、送り手と受け手には温度差があることがわかる。
では送り手のコードとはどのようなものだろうか。
送り手のコードは基本的に自己満足という目的のもとにあると考えられる。
そこで私は「でフォト」を4つに分類してみた。
まず、1つ目
寂しさ、孤独感を紛らわすためものである。
これはたいてい送り手が一人でいるときに、投稿されるものが多い。例えば、自分のご飯や、コーディネート、お気に入りのものの紹介などの写真である。
2つ目
人に見られたい、注目されたいという欲望からのもの。
「〜なう」といった、自分の「今」を表す言葉と共に投稿された写真を指す。
このようなでフォトは芸能人のブログ、Twitterを無意識に模倣している場合もあれば、誰にも注目されること無く過ぎ去っていく自分の日常生活を、誰かにみられることが可能な状況、すなわち投稿という形に写真を挙げることで、人が本当に見ているかどうかに関わらず、ひとまずは人に見てもらえていると満足することができる。
3つ目
自己正当や印象操作のためのもの
これは、私は今こんなに人生を満喫している、もしくは私はこんなにも落ち込んでいる、といった感受性豊かな自分を他者にアピールする目的が含まれている。
社会学者のゴフマンが、人は何気なく演技することで自分の印象をコントロールしようとしている、と指摘した通り、SNS上でも演技、演出することで自分の望むような自己イメージを作り上げている。
4つ目「〜っぽい写真」
自分のセンスをアピールするもの
これはカメラマンっぽい、アーティストっぽい、と言わんばかりの、オシャレさ、斬新さ、美しさのセンスをアピールした写真を指す。
このような写真はアングルを工夫したものや、インスタグラムに代表される写真加工ツールで編集したものが多い。
このように私はSNSにおける送り手のコードを4つに分類した。
ではそもそもなぜSNS上にはでフォトが溢れてしまうのだろうか。
これはジョン・フィスクの指摘を紹介して解説したいと思う。
フィスクは観光地で、なにかをみた感動をうまく表せず、ただ佇むだけということを避けるために、カメラを向けてごまかしていると指摘している。
つまり、撮影内容より、撮るという行動が目的化され、とりあえず写真をとっておけば観光地における反応として間違いではない、旅行者は考えているということである。
これは日常生活の些細なことまで写真に撮って投稿する「でフォト」にも共通している。
自分の日常を他者に見られたい欲望や、印象操作、自己満足を得る方法、あるいは妥協点としてでフォトがあるということである。
では次に二つ目の問い、画像加工フィルターを利用した作品制作が19世紀中葉に存在したとして、それは芸術制作として同時代人に認められるかについて考えてみたいと思う。
結論からいうと、芸術制作として認められないと考える。
現代のSNSのような共有の場が無いこと、また絵のほうが写真よりも価値が高いこと、似たような写真が蔓延し飽きられるからである。
私はそもそも写真加工アプリを利用している人は、写真を芸術作品にしようと意気込んでいるのではなく、「スマホだし、加工でもしてみるか」といった軽い気持ちで利用していると考えている。写真を加工したいから、加工しているのではなく、スマホがあるから、アプリがあるから加工せずにはいられない、アフォーダンスな関係にあるのでは、と考えている。
プラトンは自由人と奴隷の作るものの違いを自由意志の有無としているが、写真加工アプリの場合、それを利用するひとが必ずしも自由意志をもって加工しているとはいえない。
またアプリによる加工には自由さは少なく、あくまで何パターンかの加工メニューから仕上がりを選択しているにすぎない。
だからアプリで加工された写真はどこかオリジナリティが欠け、インターネット上でよく見かけるような写真ばかりになってしまうのである。
このように加工せずにはいられないという衝動のもとで加工された写真は19世紀中葉には芸術作品としては認められないと考える。
写真加工アプリに限らず、私たちは
スマホを使いこなさなくてはいけない!
と無意識のうちに思ってしまっているのではないか。
みんな持っていて、
スマホは便利という風潮のもとにいると、
スマホを持て余すことができなくなり、
結果一日の大半、
それをいじりながら過ごしてしまっていないだろうか。
便利さを手に入れるために、買ったスマートフォン。
最初は買ったばかりでウキウキしながら触っていたが、
気付いたら5分以上スマートフォンを自分のそばから離せないならば………。